白洲次郎的 (新書y)
カスタマーレビュー
おすすめ度:
白洲次郎に関する類書を読んで余力のある人にはどうぞ。
(2007-08-15)
私は、白洲次郎に興味を持ち、この本を初期の段階で手にしたが、すぐに放棄し、他の類書を読むことになった。本書のほとんどの割合で、著者の感想に近い独り言につきあうことになる。しかも、読んでいて後味は良くはない。こういうスタイルでは、論じる人自身が論じる対象のレベルまでに至っていないと(少なくとも努力をしないと)つらいのではないだろうか。この本を評価するとすれば、白洲次郎に関する類書に一応目配りをしていることだろう。また、すでに論じ尽くされた感がある白洲次郎について、類書と異なった方針で論じようとしたと言えなくもない。しかし、内容的には、著書による独自の取材の痕跡がほとんど認められない。また、白洲に関する新たな評価を加えたというほどの発見もない。このままでは、白洲次郎に関する出版ラッシュに便乗したと言われても仕方がないのではないか。どうして他の類書があるにもかかわらずこの本を出版する気になったのか最後まで分からないままである。少なくとも、これから白洲次郎を知ろうとする人には薦める気には全くならない。
あくまで「白洲的」であり、「白洲」ではない
(2007-05-08)
勢古氏は、白洲次郎の生き様をとっかかりにして、正直に自分の感じるところを書いているのであって、それがタイトルにも反映されているし、まえがきにもその意図が明確である。あとは、勢古氏のものの見方、とらえ方に共感できるかどうかの話。
勢古氏の書くところからは、人間の弱さ及び知らず知らずのうちに誰もが陥っている(と思われる)卑劣さを見抜くコツが学べるので、ありがたい。「白州に憧れている」と言うこと自体がファッションのようになってしまった感のある今、白洲になることは不可能でも、少しでも近付きたいと本気で思う諸氏には具体策検討のためにも、一読の価値があると言える。
だが、文章はまさに勢古節。好きな人にはそれでよいのだろうが、私には不必要に卑屈で低俗な言い方が多すぎるように思える。しかし、人はみな違うのだし、こういう文体が存在してもとやかく言えない。嫌いなら読まなければよいだけのこと。しかし、言いたいことをもっと透明に淡々と書いてもらえたら、ずっとすっきりした気分で読めたことだろう。また、もっと多くの読者にも受け入れられるのではないか。勢古氏には「余計な御世話だ」と言われるかもしれないが、メッセージがいいだけに惜しいと思う。
四畳半「オレオレ勢古的」人生訓
(2006-07-22)
勢古氏の著作の題名ってキャッチーなものが多く、
しばしば書店で手に取るのですが、今回初めて購入したのがこれ。
文がウェットです。読んでて辛いです。
何か氏の会社の同僚、上司、取引先の人を想定しているような
悪口があったり、極めて個人的な恨み節がチラホラあります。
白州次郎に憧れては身悶え、独り四畳半でブツブツ云いながら
書かれたっぽい。
白州次郎を知りたいなら、他の本にあたり、
自分で考える方が時間とお金の節約になるでしょう。
お金と時間を返せ〜!
(2006-05-11)
「白洲次郎」のことは2割、「勢古浩爾」の意見が8割を占めるこの本。
あおり文句にも「勢古人生論」と銘打っているだけあって、元々白洲次郎を知りたいひとには向かない。
白洲次郎入門書というよりも、勢古浩爾入門書という方が正しい見方だと思う。
そして、この勢古浩爾という著者、価値観も文章もあまりにお粗末なのだ。
何よりいけないのは、人物評がすごく浅はかなところ。
例えば、彼は文中で白洲正子のことを「バカ娘」と呼んでいる。また、毎日新聞の"余録"欄を書いた論説員を見下して(かどうだか知らないが)「余録子」と仇名をつけたり、イチローと松井を比較してイチローの方は「男」っぷりが大したことがない、とかなんとか。
他意はないにしても、実際に会ったこともない人を安易に評する著者が、いくら白洲次郎をカッコいいと言ったって真実味がない。
読むことを途中で止めてしまった。
自分を語らない、というカッコよさ
(2006-03-19)
白洲次郎は明治の男である。大金持ちの御曹司である。強きをくじき弱きを助ける正義の人である。しかも美男子である。どうやら日本一かっこいい男らしい。数年前女性誌で取り上げられて以来ちょっとしたブームときく。恥ずかしながらちっとも知らなかった。で、何冊か読んでおこうと思って手に取ったうちの一冊が本書である。
本書はしかし白洲次郎の評伝ではない。それどころか白洲本人については上に書いたことくらいしかわからない。「白洲次郎的」の「的」がクセモノ。白洲本人ではなく。白洲的な生き方、白洲的な思想、白洲的な人格に自己の理想を投影する勢古氏自身のモノローグである。いったい白洲のどこが理想なのか。
・ひとつ、白洲は自分を語らない。自分を見せたいという動機がない。
・ふたつ、白洲は自己の正義、原理原則に忠実である。
・みっつ、白洲は言葉遣いは荒く粗野だが、弱きものへの情愛がこのうえなく深い。
ことにひとつめが重要である。白洲は「なにものかであろうとする自分」を突き抜けている。ここに勢古氏は自己の理想をみる。なぜか。
勢古氏の書くものはいわゆる「思想」とか「批評」に属するものだ。が、学者や本職の批評家のように王道をゆくものではない。氏自身は書籍関係の会社に勤めるサラリーマンで、本職からみれば在野のインテリに過ぎない。そこに屈折感が生じる。
他人とは違うなにものかであろうとする自分、でも思想界においてはなにものでもない自分、しかし普通のサラリーマンよりは有名という優越感、でも・・・と果てしもなく続く自己否定と自己承認のループ。そして自己嫌悪。白洲にはこのグズグズ感がない。なぜなら自分を見せたいという動機がないからである。「自分」を突き抜けてしまっているからである。なんとカッコいい男であることか。
筆者自身の屈折感にもシンクロするところがあって共感できる点の多い一冊であった。
おすすめ度:
白洲次郎に関する類書を読んで余力のある人にはどうぞ。
私は、白洲次郎に興味を持ち、この本を初期の段階で手にしたが、すぐに放棄し、他の類書を読むことになった。本書のほとんどの割合で、著者の感想に近い独り言につきあうことになる。しかも、読んでいて後味は良くはない。こういうスタイルでは、論じる人自身が論じる対象のレベルまでに至っていないと(少なくとも努力をしないと)つらいのではないだろうか。この本を評価するとすれば、白洲次郎に関する類書に一応目配りをしていることだろう。また、すでに論じ尽くされた感がある白洲次郎について、類書と異なった方針で論じようとしたと言えなくもない。しかし、内容的には、著書による独自の取材の痕跡がほとんど認められない。また、白洲に関する新たな評価を加えたというほどの発見もない。このままでは、白洲次郎に関する出版ラッシュに便乗したと言われても仕方がないのではないか。どうして他の類書があるにもかかわらずこの本を出版する気になったのか最後まで分からないままである。少なくとも、これから白洲次郎を知ろうとする人には薦める気には全くならない。
あくまで「白洲的」であり、「白洲」ではない
勢古氏は、白洲次郎の生き様をとっかかりにして、正直に自分の感じるところを書いているのであって、それがタイトルにも反映されているし、まえがきにもその意図が明確である。あとは、勢古氏のものの見方、とらえ方に共感できるかどうかの話。
勢古氏の書くところからは、人間の弱さ及び知らず知らずのうちに誰もが陥っている(と思われる)卑劣さを見抜くコツが学べるので、ありがたい。「白州に憧れている」と言うこと自体がファッションのようになってしまった感のある今、白洲になることは不可能でも、少しでも近付きたいと本気で思う諸氏には具体策検討のためにも、一読の価値があると言える。
だが、文章はまさに勢古節。好きな人にはそれでよいのだろうが、私には不必要に卑屈で低俗な言い方が多すぎるように思える。しかし、人はみな違うのだし、こういう文体が存在してもとやかく言えない。嫌いなら読まなければよいだけのこと。しかし、言いたいことをもっと透明に淡々と書いてもらえたら、ずっとすっきりした気分で読めたことだろう。また、もっと多くの読者にも受け入れられるのではないか。勢古氏には「余計な御世話だ」と言われるかもしれないが、メッセージがいいだけに惜しいと思う。
四畳半「オレオレ勢古的」人生訓
勢古氏の著作の題名ってキャッチーなものが多く、
しばしば書店で手に取るのですが、今回初めて購入したのがこれ。
文がウェットです。読んでて辛いです。
何か氏の会社の同僚、上司、取引先の人を想定しているような
悪口があったり、極めて個人的な恨み節がチラホラあります。
白州次郎に憧れては身悶え、独り四畳半でブツブツ云いながら
書かれたっぽい。
白州次郎を知りたいなら、他の本にあたり、
自分で考える方が時間とお金の節約になるでしょう。
お金と時間を返せ〜!
「白洲次郎」のことは2割、「勢古浩爾」の意見が8割を占めるこの本。
あおり文句にも「勢古人生論」と銘打っているだけあって、元々白洲次郎を知りたいひとには向かない。
白洲次郎入門書というよりも、勢古浩爾入門書という方が正しい見方だと思う。
そして、この勢古浩爾という著者、価値観も文章もあまりにお粗末なのだ。
何よりいけないのは、人物評がすごく浅はかなところ。
例えば、彼は文中で白洲正子のことを「バカ娘」と呼んでいる。また、毎日新聞の"余録"欄を書いた論説員を見下して(かどうだか知らないが)「余録子」と仇名をつけたり、イチローと松井を比較してイチローの方は「男」っぷりが大したことがない、とかなんとか。
他意はないにしても、実際に会ったこともない人を安易に評する著者が、いくら白洲次郎をカッコいいと言ったって真実味がない。
読むことを途中で止めてしまった。
自分を語らない、というカッコよさ
白洲次郎は明治の男である。大金持ちの御曹司である。強きをくじき弱きを助ける正義の人である。しかも美男子である。どうやら日本一かっこいい男らしい。数年前女性誌で取り上げられて以来ちょっとしたブームときく。恥ずかしながらちっとも知らなかった。で、何冊か読んでおこうと思って手に取ったうちの一冊が本書である。
本書はしかし白洲次郎の評伝ではない。それどころか白洲本人については上に書いたことくらいしかわからない。「白洲次郎的」の「的」がクセモノ。白洲本人ではなく。白洲的な生き方、白洲的な思想、白洲的な人格に自己の理想を投影する勢古氏自身のモノローグである。いったい白洲のどこが理想なのか。
・ひとつ、白洲は自分を語らない。自分を見せたいという動機がない。
・ふたつ、白洲は自己の正義、原理原則に忠実である。
・みっつ、白洲は言葉遣いは荒く粗野だが、弱きものへの情愛がこのうえなく深い。
ことにひとつめが重要である。白洲は「なにものかであろうとする自分」を突き抜けている。ここに勢古氏は自己の理想をみる。なぜか。
勢古氏の書くものはいわゆる「思想」とか「批評」に属するものだ。が、学者や本職の批評家のように王道をゆくものではない。氏自身は書籍関係の会社に勤めるサラリーマンで、本職からみれば在野のインテリに過ぎない。そこに屈折感が生じる。
他人とは違うなにものかであろうとする自分、でも思想界においてはなにものでもない自分、しかし普通のサラリーマンよりは有名という優越感、でも・・・と果てしもなく続く自己否定と自己承認のループ。そして自己嫌悪。白洲にはこのグズグズ感がない。なぜなら自分を見せたいという動機がないからである。「自分」を突き抜けてしまっているからである。なんとカッコいい男であることか。
筆者自身の屈折感にもシンクロするところがあって共感できる点の多い一冊であった。
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